岩見沢は昨晩から降り続き、再び雪景色。
早朝から玄関前の雪かきをしたのに、その後に除雪車が入ってきて、一体俺様の雪かきは何だったんだ?と心の中でぼやいています。
こうやって書いていることも後述しますが認知してもらいたいからなのですが。
そういえば、神戸戦には小柳ルミ子さんが来場していました。
試合後の彼女のコメントはいわずもがなの審判批判でしたが。
さて、その神戸戦の審判団です。
試合前の写真を撮りましたが、この世間の情勢では悪用されるのは必至なので掲載は回避します。
ただ、その時お会いした時にはすぐにこちらの存在に気がついてくれましたし、特に緊張しているようには見えませんでした。
お会いした時の感想ですが、知人にも話したのですが今年は柿沼さんの担当が多いなあ、と思いました。他意はないです。
ホームの長崎、柏、セレッソそして神戸と全てアイスタの4試合目でした。
従って勝手知ったるスタジアムなのではと思いました。
試合のVTR検証で既に原さんや上川さんがコメントしていますので、結果論は皆様にお任せします。
問題はなぜそのような結果論(=判定、判断)に陥ったのか?
を解明しないことには何の解決にもつながらないと思います。
再発防止っていうのはそういうことでしょう?
なんでもかんでも物言えぬ審判のせいにすることほど楽なものはないです。でも、それでは何の改善にも繋がらない。
私は心理学者でもカウンセラーでもないのですが、この日の柿沼主審はスタジアムの雰囲気に呑まれていたように思いました。
その原因が超満員のスタンドなのか、イニエスタ選手がいることによるものなのかはわかりませんし、そのように考えること自体、審判の方に失礼だとは思うのですが。
そう思ったのは、
“声が出ていない”
数回前の記事でも書きましたが、コミュニケーションです。
選手との会話もそうなのですが、発声がほとんど無かったように見えました。
人間、緊張すると声が出なくなりますよね。それです。
日常の生活(社会)では緊張すれば、周りが
「緊張するなよ、何とかなるよ」
とフォローして励ましてくれるものですが、ご存知のように審判は大観衆すら敵に回してしまうという試合が始まってしまえば天涯孤独な人生になってしまいます。
だって、
「頑張れ~、カッキー(柿沼さんのこと)」
なんて応援しないでしょ、心の中でも。
(声以外にも顔の表情は硬かったです。選手とのやりとりで笑顔は無かったですから。)
そして、このような状況の柿沼さんに襲った悲劇がポドルスキー選手の試し行為だったのではないでしょうか。
キックオフ直後の松原選手へのプレーで、この日の審判のレフェリングの基準を試していた感があります。
ポドルスキーさんや、ヴィッセルサポさんには失礼な例えになるのですが、不良因子のある生徒が紛れ込んでいると授業が円滑に進まないことがありますが、それを思い浮かべました。フェアプレーへの協力の意識が無い生徒を好き放題にさせてしまいました。
これが緊張している柿沼さんの精神状態に更に追い討ちをかけたのではないかと。
松原選手もかなり熱くなりましたが、彼は抑えていました。そういう気持ちがポドルスキー選手にもあれば、状況はもう少し静まったと思います。
これまで何度も申し上げていますが、審判の努力・責任だけでフェアな試合は成り立たず、選手の協力もあって初めてフェアな試合が実現するというものです。
このような精神状態にならないようにするにはもう経験しかないと思うんですよね。
しばらくはお咎めがあって笛を吹く機会がないのかもしれませんが、経験に勝るものはないので、その経験を積むためにも今後も多くの試合で笛を吹いて、また超満員のアイスタで姿を見たいと思います。
「また、あの柿沼かよ」
とか
「アディショナルタイム30分くらいかな」
というヤジを言うのは簡単ですよ。でも、それを言って何になるんでしょうか。
単なる自己顕示欲によるヤジ(口害)でしょ?
ミスった時は審判批判の集中砲火、
ナイスな時は物言わぬサポーターやブログの何と多いことか。
審判への認知行為が希薄なんですよね。
どんな人でも、他人から認められたい気持ちはあるでしょ?
ということで、このブログは今後も審判を応援していくことを決めました。
(応援=甘く評価する、という意味ではありません)
審判もサッカーファミリーの大事な仲間なので、このような応援するブログがあってもいいと思ったわけです。
最後に、何度も紹介していますが、私の愛読書の一つ
「アルビレックス散歩道」(えのきどいちろう氏 著)
より「審判さんと行司さん」 の中の一文を紹介します。
まぁ、「判定に泣かされる」とうのはサッカーにはよくある話です。反対に判定で幸運が転がり込むこともある。そこはトントンだと思うようにしないと、サッカーが窮屈なほうへ行くんじゃないかなと思います。例えば審判の人数を増やすとか、TVジャッジを導入するとか、論者によってはそういう考えの人もいますね。これは「正しい」をプライオリティーの最上位におく考え方です。ひとつの見識だと思います。だけど、「正しい」でガチガチになるのはあんまり僕の好みじゃない。
もちろん正しくなくていいなんて言ってるんじゃないですよ。そこにはフェアな基準があるべきだと思う。だけどアレですね、究極のところで僕は「友達が原っぱに何人いて、2で割ると何人ずつのチームになって、残っちゃったヤツが審判やってくれてる」みたいな姿を理想だと思ってるんですね。「あ、ゴメンそろそろ審判代わるわ」とか。プロの試合は原っぱの草サッカーではあり得ないんだけど、審判もサッカーファミリーの大事な仲間だと思いたい。
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